土生商店街の歴史

History

土生商店街の歴史

因島は元和5年(1619)より広島藩領で同年の「知行帳」によると「院島村」とあり一村と把握されているが、寛永15年(1638)の地詰では分村されていて、重井村・外浦・土生村・田熊村・中庄村の地詰帳が伝存しているようです。文政8年(1825)成立の「芸藩通志」によると田熊村・土生村など9村が見られ、中でも9村の一つの椋浦では廻船業が主で、農耕は婦女子に任されていた。椋浦には1,500~1,600石以下の船35隻があり、三庄村でも1,200石以下の船76隻、土生村の500石以下86隻がこれに次ぐようです。椋浦と三庄村には廻船方が置かれ、大坂にある藩の蔵屋敷へ年貢米の輸送を義務付けられていたそうです。

古くから海運業に従事していた因島南部では、地の利もあって早くから造船業が営まれていましたが、近代的な造船業は明治30年代前半に土生船渠合資会社から始まりました。その後、因の島船渠株式会社となり、大阪鉄工所に買収され、同社の因島工場となった。昭和11年に大阪鉄工所は日立製作所の傘下にはいり、昭和18年に日立造船所と社名をかえた。
第2次大戦では米軍により爆撃を受け大打撃を受けたが復興に努めた。そして2002年に日本鋼管の造船部門と日立造船の造船部門が合併して今はユニバーサル造船として、船舶修理を専門に行う大工場です。 また、明治以降の島の農産物を代表するものは除虫菊と柑橘類です。除虫菊は明治20年代に導入され蚊取り線香の原料として世界中に輸出されていたが、今は化学薬品に押されて栽培は無くなってしまった。

土生村の宝暦5年(1755)の村立実録帳では家数102・人数551。江戸後期の「芸藩通志」では家数213・人数1,071・船86とあり、村の北西部には瀬戸内海で有名な「家船」の集落、箱崎があった。農間余業は海運・漁塩の業とある。
土生は賑やかな商店街が海岸の幹線道路から一本内側に通っていた。日立造船の造船華やかな時には、この商店街の道いっぱいに工場従業員が通り、流れに逆らっては歩けなかったが、その後の造船不況を経て今は従業員も少なくなり賑やかさは無くなってしまいました。
飲食店や各種の店舗がびっしりと並び、造船工場従業員相手の店が軒を並べていて、企業城下町の様相であった。 でもその分古い町並みは残っておらず、賑やかな商店街から外れた所に僅かに残っていた程度だった。

昔懐かしの土生の街並み